前回、青龍寺から須崎へ抜けるはずだったのだが、一泊二日足の痛みに耐えかね、宇佐大橋あたりでリタイア。その時、高岡の宿を出る際に、横浪の内湾を走る渡船のことを聞いてたのだけど、それを宇佐大橋あたりで探し出せず、高知県交通のバス、宇佐出張所からやむなく高知へ引返し帰ってきた。
ところが、帰ってきていろいろ調べ地図で見るとなんと、この宇佐出張所の目と鼻の先にその乗り場があるではないか!・・・
あれほど、その出張所の女の係員に聞いたのだけど、それには一言も触れず須崎へ行くバスの経路ばかりで、結局高知へ引き返したのである。
確かにバス会社の社員だから、自分のところのバス路線の話をするのは仕方がないにせよ、一言巡航船の乗り場の話をしても、バチはあたらんだろう・・・。ましてや、相手は遍路に来ているんだから。。これじゃあ、路線バスが縮小していくのも当然だろうなあ・・目先ばかりにおわれて了見が狭すぎる感がするが・・。。
というわけで、巡航船を調べていくうちに、高知新聞のこういう記事を見つける。
巡航船 遍路から地域の“足”に
つまりこの記事によると、巡航船のルートがかっての遍路道だったようなので・・・これはぜひとも乗らんといかんなあ・・・と、ちょっと不安な天気だったけれども、土曜日に出かけることにした。
今回のルートは
安和⇒朝倉→宇佐出張所 巡航船 横浪・・須崎・・番外大善寺・・安和
というコース。
JR安和駅は、絶景のロケーションの駅で、是非とも見たかったので、知人が遊びに行くついでに駐車場の有無を調べてもらってたので、ここに車を置き、JR朝倉駅まで戻り路線バスで宇佐出張所まで行きそれから、安和へ戻るということに。
朝7時前、駅に着き、列車で朝倉駅に戻る。土曜日だというのに、2両編成の列車は学生で満員。少し驚く。朝倉駅前から 4人しか乗ってない路線バスで 宇佐出張所まで行く。終点の宇佐出張所まで乗ったのは私一人。ついたのは 9時40分過ぎ。船に乗り遅れたらいかんと急ぎ足で歩き始める。
・・・・と、乗り場の道しるべを見つけた時にはホントまったく、何で前回教えてくれなんだ?とむかむか腹が立ってしまった。
なんと歩き始めて 2.3分も経ってない。やま離れたとして ホント100メートルぐらい・・・・しか離れてないのよ、これが・・・高知県交通 宇佐出張所と。。
言いたかないけど、公共機関に携わるものこそ、お接待の心を持ってほしいね・・
市営巡航船乗り場の案内板は、ともすれば見落としそうなぐらい目立たない。
これでは、よそ者には利用されたくないんじゃあ?と・・うがってしまうほどで・・・。
待合室の戸を開けると、船長さんが一人たたみの上でくつろいでいた。
「10分ほどで出るから・・」と
「トイレないですか?」と聞いたら
なんと船長さんが、こう答えた。
「ないですねえ・・・、・・・するならバスの待合所へ行ってもらわないと・・」
ええっ・・こちらではバスの待合所のことが出て、向こうでは 一言も出ない・・・・世も末だね。それとも私が聞いた相手のバス会社の係員の当たりが悪かったか・・・何週間も損した気分だなあ。。
あそこまで戻るくらいなら、ガマンガマン。。
お客は、私と、近くの民宿のおかみに連れられてやってきた夫婦連れのお
遍路。計3人。
この巡航船は、市営で日曜祝日は休みである。
夫婦連れのお遍路のだんなが
「この船のこと知ってました?」と聞くので
「知ってたんだけどねえ・・・」・・前に来たとき見つけられなくてねえ・・とも言えず・・あとを濁す。
「そうですか?知ってたんですか・・。今朝民宿出る時に聞いてねえ・・・歩くつもりだったから、今日の泊まりは須崎にしてしまって・・・先に知ってればねえ・・」とだんなも後悔しきりの様。。
巡航船は 海の中に中州があるからとぐるりと回りながら進んでいく。
船長いわく、
「こういう風に周りが山に囲まれている湾なので、ほとんど波がない。台風の時ぐらいでね波があるのは・・。」と
確かに ほとんど船は揺れない。ゆれるのは他の船とこの船が引き起こす引き波に当たったときぐらい。いたって乗り心地はいい。
船長を見ていてちょっと面白いものを発見。
いす・・・上げ底なんだねえ・・これが・・。いすが落ちないのが不思議というか面白い・・。
「昔から 地域の足としてねえ、この船はあったんですよ。湾内の部落の船着場を行ったりきたりしながらね。船着場に人が立ってないと寄らないで素通りするんですよ」と船長。
一時間ぐらい あっちへ行きこっちへ行きしながら巡航船は、横浪に着き、私たちを下ろして、さっと走り去った。
下りしなに船長が
「仏坂不動尊のある道より、湾沿いの道を歩いたほうが歩きやすいよ」といってくれたので、下の道をあるくことにした。まあいわば横着なほうを選んだということだけど・・
須崎への中間辺りにある遍路小屋で休んでいたら、私より大分年上のお遍路が追いついてきて
「まいった・・・ここまで来るのに五時間半もかかった」とため息をついてる。時計の針は12時半ぐらい。
「どこから歩いてこられたんですか?」
「国民宿舎」
「青龍寺の?」
「そうなんだよ、あそこから5時間半・・・こんなにかかるとは・・・」
青龍寺から横浪スカイラインという道が、太平洋に面している外側を通って、この遍路小屋の手前で、内湾沿いに来た道と合流するのである。
「そうですか・・・あっちは遠いといってましたからねえ」と私。
「あんたは?」
「私は、船で・・」
「えっ?船に乗ったの?船があるといってたもんなあ・・・。俺もそうすりゃよかった。。」うらやましそうに。。
「なんか路線バスもなくなったというし・・・。遍路だけ載せてったてペイしないだろうから・・田舎はだんだんなくなっていくんだろうな」とその叔父さん。相当へたばってるようで
「近くにコンビにあるといってたから、がんばってきたのに見当たらないねえ」と私に
「ないみたいですよ、もっと先の市街まで行かないと」
「ホントかよ・・」とがっかりした様子で、遍路小屋の床に上がりこんでしまった。
疲労困憊の叔父さんを残し、先に遍路小屋を出る。
須崎の市街の入り口で遍路道は、住友大阪セメントの工場の脇を進む。何で?と思うけど・・・遍路道自体がこの工場の端まで伸びてるから、不思議。
右が工場
歩きに来て お寺参りをしないのもちょっと物足りないしさびしいので、須崎のはずれにある 番外 大善寺に寄る。
これが急な絶壁の上に立っているような感じのお寺で上ると目の前が絶景。
ここから、国道のトンネルを抜けて 安和 へ向かうのだが、トンネルが意外と長いし、白線だけの歩道だけだから怖いしほこりっぽいし排気ガスで息苦しい。次のトンネルの手前で、マスクを持ってきてないので、タオルで覆面をする。これで大分楽になった。
三番目のトンネルの手前で海側の道を山越え。
安和の駅を上から見たかったため。
今日の歩いた距離 16キロ
(巡航船での移動距離 含まず)
母の日
初夏のような暑い一日。日差しがきつい。
知人が、母の日だというので かみさんにとカーネーションの花束をもって来てくれた。大きな花束でビックリするわ大喜びするわで かみさんともども感謝。
で、自分はというと 施設に入っている母親に カーネーションが数本入った小さい鉢植えを持っていった。
認知症が少しずつ進みはじめているお袋は、周りの介護士さんたちが
「今日は何の日?ええなあ、ええもんもろて・・」と話しかけるのであるが所在無く微笑みうなずくだけ・・・
そろそろ帰ろうか・・・という時になって、ヒトの顔を見て
「される値打ちがない・・」とぽつんと言った・・
・・覚えてるんだねえ、肝心なところは・・
帰ってかみさんに言うと
「それは される値打ちじゃなくて、する値打ちと言ったんじゃないの?・・今頃になってしても値打ちがない・・ と言いたかったんじゃないの? 」と。
「・・・・確かになあ・・・」・・次の言葉が出てこず・・
母の日、父の日・・苦い思いをするばかり・・
料理屋のおっさんが・・
「あんた・・歩きよるの多いなあ・・!遍路よ。そこもここもにもオルが!」と店に入ってくるなり、料理屋のおっさん。
おっさんは、この連休の日月と四万十へうなぎの仕入れに行っていたのだ。おっさんは私が歩きに行ってるのを知ってて・・今度も私が
「四万十行くんだったら、ひょっとしたら会うかも・・」といってたものだから、道々ずーっと遍路姿の男の顔を見てたんだそうで、1泊2日足の私がケツをわって帰ってきてたことなど知らないから、2日間見てたら、その歩いてる数の多いことにびっくりしたようで・・・
「まあ、次から次と沸いたように歩いとってびっくりしたわ・・。」とおっさん。仕入先へは普通は電話で済ますのだけど、久しぶりに顔見世にいかんと・・・ということで行ったらしい。でそこの親父さんに話を聞いたら
「あのNHKの街道テクテクで女の子の卓球選手が歩いてから、ぐーんと増えたってよ。それまでは、歩きなんてポツポツだったのにな・・。まあ、増えるのはええことかもしれんが、そのぶんパタパタ行き倒れがふえてなあ・・・と言うとったで」とおっさん。
「ふーん・・行き倒れ・・」
「まあ拝みもって死んでいくんだから、本人はそれでええかもしれんがなあ・・とよ!」
「へえ・・結構トラブル増えてるんかなあ・・・」
「行くのはええけど、あんた気付けとったほうがええで!」
とひとしきり、あっちで聞いてきた遍路の話をして帰っていった・
まあ、確かに相当増えてるから、私も歩きながら多少は感じるところもあったのだが・・・・・
△ 四国八十八ヶ所感情巡礼
車谷長吉
去年文芸春秋に連載されている時から読んでいて、単行本になっても 歩きに出る前に読んで、出かけていたのだけど・・・
最近、歩きが進みだしてからは手に取ることもなくなってきた。
歩きが進みだして読むより、これから「お四国」でもと歩き始める前に読むほうが面白いかもしれない・・
何故か・・・
朝寝坊して、高速バスで高知入りした日、バス停で高速バスを待っていたら、自家用車に送られてバス停まで来たおばさん二人。
車から降り立つ姿が金剛杖に菅笠の遍路姿。二人に見覚えが・・。ずいぶん前の仕事の時の知り合いで・・向こうも気づいたらしく・・
「あらまあ、久しぶり・・」と私が座っているベンチにおいてある金剛杖と菅笠を見つけ
「あれ、お四国?」と二人のうちの一人。
「ええ・・・おばさんたちも?ですか?」
「どこのツアー?私らは、今から高野山・・歩いて・・」
「えっ?歩きですか・・?どこから?・・、私も一人で、今歩き遍路修行中で」
「和歌山・・慈尊院から歩くつもりよ、二人でね。で、あなた今どこまで行ってるの?」
「33番雪蹊寺までですよ、まだ半分にもきてないので・・。でもすごいですね、88箇所もう周られたんですか?」私の記憶では、この二人は私より一回り以上離れているはず・・
「6年がかりで周ったのよ・・・最初は歩きのツアーで回ってたんだけど・・・途中から二人でね・・月一回のペースで」と二人で顔を見合しうなずきながら
「たぶん私らが一番早いと思うのよ・・歩き遍路のツアーで行きだしたのが・・。。」
「でもね、大半が女の人ばっかりでね・・、歩く道がトイレがあるところを選ぶから・・、なかなかはかどらないから、終に二人で行くようになったのよ・・。最初の頃は、なんでこなにしんどいことせんといかんのよと思ってねえ、でも帰ってくるとまた行きたくなってねえ・・」と笑いながら言うので
「そうですね、僕もすぐへたばるんですけど、帰ってくると何故か妙に行きたくなってしまうんですけど、何故でしょうね?」と相槌を打つ。
・・・そうなんだよなあ・・・今回も一泊二日足で・・へたばってしまったけど・・また行こうか・・という気になる。。
「慈尊院からの道は?」と聞くと
「あの 歩き遍路のマークがあるというから・・」
「へえ・・遍路道保存協力会の?あるんですか?」
「張ってあると・・ちょっと前に行った人が言ってた。。・・ああそれで思い出した、あのね88番大窪寺の手前にね、歩きで周ってきた人にだけ、あの遍路マークの完走証明書くれる場所があるのよ・・。私らも聞いてたんだけど、その場所の手前で大窪寺への道に入ったから、探すのに苦労したからねえ、結局大窪寺から戻るようになってね・・見たら、その曲がった道の100メートルぐらい先にあったのよ、その場所・・・。
歩いて周って最後そこによって、証明書貰うといいよ・・」と。
へえ・・初耳しらなんだ。。そんな証明書あるんだ・・是非とももらいたいなあ。。
△ ほぼ同い年の忌野清志郎さんが逝った。
合掌
自分だったら、どっちを選ぶのだろうか・・・。
いまだに、ふらふら闘病生活している私には、
彼ほどの強烈な進路選択はできないかもしれない・・。。
本なの?
本なのか手帳なのか?・・・
「鉄道の旅手帳」という本? を知人からいただく。
副題に 乗った路線をぬりつぶしてつくる自分だけの旅の記録 と書かれており、確かに線路を塗りつぶせるようになってる。巻末には旅の記録とメモのページがあるから 本?なのかどうかは?
だけど、これは面白い。。ぱらぱらとページを捲ってみると、ほとんど乗ってない線が多く、この全国に渡る線を乗りつぶすことなどできないなあ・・と。ただ、元気であれば、死ぬまでにまだ相当乗れるなあ・・と興味がわく。
計画線や廃線なども収録されており、特に気になるのは鉄道連絡船。
残念なのは、この本には乗ってるけど青函連絡船には乗っておらず、乗っておけばよかったなあと・・。つくづく思うのは、廃線がすごいスピードで増えているなあと・・実感。