何故か・・・

朝寝坊して、高速バスで高知入りした日、バス停で高速バスを待っていたら、自家用車に送られてバス停まで来たおばさん二人。
車から降り立つ姿が金剛杖に菅笠の遍路姿。二人に見覚えが・・。ずいぶん前の仕事の時の知り合いで・・向こうも気づいたらしく・・
「あらまあ、久しぶり・・」と私が座っているベンチにおいてある金剛杖と菅笠を見つけ
「あれ、お四国?」と二人のうちの一人。
「ええ・・・おばさんたちも?ですか?」
「どこのツアー?私らは、今から高野山・・歩いて・・」
「えっ?歩きですか・・?どこから?・・、私も一人で、今歩き遍路修行中で」
「和歌山・・慈尊院から歩くつもりよ、二人でね。で、あなた今どこまで行ってるの?」
「33番雪蹊寺までですよ、まだ半分にもきてないので・・。でもすごいですね、88箇所もう周られたんですか?」私の記憶では、この二人は私より一回り以上離れているはず・・
「6年がかりで周ったのよ・・・最初は歩きのツアーで回ってたんだけど・・・途中から二人でね・・月一回のペースで」と二人で顔を見合しうなずきながら
「たぶん私らが一番早いと思うのよ・・歩き遍路のツアーで行きだしたのが・・。。」
「でもね、大半が女の人ばっかりでね・・、歩く道がトイレがあるところを選ぶから・・、なかなかはかどらないから、終に二人で行くようになったのよ・・。最初の頃は、なんでこなにしんどいことせんといかんのよと思ってねえ、でも帰ってくるとまた行きたくなってねえ・・」と笑いながら言うので
「そうですね、僕もすぐへたばるんですけど、帰ってくると何故か妙に行きたくなってしまうんですけど、何故でしょうね?」と相槌を打つ。
・・・そうなんだよなあ・・・今回も一泊二日足で・・へたばってしまったけど・・また行こうか・・という気になる。。
「慈尊院からの道は?」と聞くと
「あの 歩き遍路のマークがあるというから・・」
「へえ・・遍路道保存協力会の?あるんですか?」
「張ってあると・・ちょっと前に行った人が言ってた。。・・ああそれで思い出した、あのね88番大窪寺の手前にね、歩きで周ってきた人にだけ、あの遍路マークの完走証明書くれる場所があるのよ・・。私らも聞いてたんだけど、その場所の手前で大窪寺への道に入ったから、探すのに苦労したからねえ、結局大窪寺から戻るようになってね・・見たら、その曲がった道の100メートルぐらい先にあったのよ、その場所・・・。
 歩いて周って最後そこによって、証明書貰うといいよ・・」と。
へえ・・初耳しらなんだ。。そんな証明書あるんだ・・是非とももらいたいなあ。。

△  ほぼ同い年の忌野清志郎さんが逝った。
      合掌
 自分だったら、どっちを選ぶのだろうか・・・。
 
 いまだに、ふらふら闘病生活している私には、
 彼ほどの強烈な進路選択はできないかもしれない・・。。
 

本なの?

本なのか手帳なのか?・・・
「鉄道の旅手帳」という本? を知人からいただく。
副題に 乗った路線をぬりつぶしてつくる自分だけの旅の記録 と書かれており、確かに線路を塗りつぶせるようになってる。巻末には旅の記録とメモのページがあるから 本?なのかどうかは?
だけど、これは面白い。。ぱらぱらとページを捲ってみると、ほとんど乗ってない線が多く、この全国に渡る線を乗りつぶすことなどできないなあ・・と。ただ、元気であれば、死ぬまでにまだ相当乗れるなあ・・と興味がわく。
計画線や廃線なども収録されており、特に気になるのは鉄道連絡船。
残念なのは、この本には乗ってるけど青函連絡船には乗っておらず、乗っておけばよかったなあと・・。つくづく思うのは、廃線がすごいスピードで増えているなあと・・実感。

一泊二日足・・

ゴールデンウィークにさしかかる前、かみさんに
「今度は、一気に足摺あたりまで行ってこようと思う」と宣言。意気揚々と29日に出かけるはずだったのだけど・・・
朝、例のごとく朝一の土讃線に乗るつもりが。朝寝して・・乗り遅れ、やむなく高速バスで高知へ。はりまや橋で長浜行きまで路線バス。
 33番雪蹊寺の大師堂から歩き始める。
 時11時過ぎ・・・「やっぱり、遅いよなあこの時間だと・・」と思いつつも34番種間寺を目指す。
 歩きながら、ふと思ったんだけど
「このちょっと上、競馬場だよなあ・・。」と。
 最近、トンとご無沙汰で・・
「あれ・・きたの何時だっけ?」と記憶をたどるも、定かに思い出せず。。
 昔30年ぐらい前、港近くにあった競馬場へはよく来たなあ・・車飛ばして・・なんてことを思い出しながら、水路沿いの道を歩く。
 種間寺は、今まで歩いてきたお寺から比べると珍しく平地の道路際に建っており、参道もなく
「へえ・・・」と少し気落ちする。

種間寺を出る頃には 1時近くになっており、あわてて今晩の宿探し。
お目当ての宿は、何度電話してもでず、仕方なく別の宿を予約して・・
35番清滝寺へ。
ほぼ水路沿いの道を歩き、仁淀川を渡る。


この高岡に入ると、やたら親切な人がいて、道々呼び止められ道を教えてくれる。確かに仁淀川を渡ると、大きなバイパス道路ができており道が判然としないのではあるが・・・さすがに、ミニバイクに乗ったおばさんに呼び止められたときには参った。
延々と
「私が、いつも行ってる道わな・・・・」と話するので、途中で腰を折るのも遍路修行のこちらとしては・・、と相槌を打ってたら15分あまりも引っ張られた。おばさんに丁寧にお礼をいい別れ、腕時計を見ると3時半を回っており、山道に不安を残す私としては大いに不安。
清滝寺の上りはプチ遍路ころがし・・で、閉口。
仁王門は、一般車道から一段下にあり、歩いてこなければ、先ずお目にかかれないというところにあり、これだけででも歩いてきた甲斐があったというもの。。

この仁王門から本堂の境内まで急段があり、ぜーぜーと息を切らせて上がったのを境内で文旦を売ってたおじさんが見て
「まあこっちきー・・」と側のベンチに手招きしてくれ一息つく。
「ああ・・しんどかった」と大息をついていると、文旦のお接待をしてくれながら、そのおじさんが
「あんた、そのぐらいでしんどがってたらいかんぜよ!きのうな、徳島から来たというワカイシな・・・あんた!お地蔵さん背おてなきなはった!びっくりしたで、あれには・・・リュックサックから頭出てなあ・・」と身振り手振りで話してくれた。私も見たかったなあ・・というと叔父さんは、ワカイシが置いていった納め札を見せてくれた。
お地蔵さん背おうて1番から周ってるんだとか・・私の足では 追いつくこともなかろうけど・・・
お参りをすませ、すこし見晴らしのよい景色をみて、店じまいをしていたおじさんにお礼を言い寺を降りる。もう5時である。

高岡の宿に入ったのは6時過ぎ。案の定私が一番遅かったようで・・。
►本日の歩いた距離 20キロぐらい。
この日同宿になったのは4人。
年は、一人ちょっと高齢のように見える人を除いて、私とほぼ同じ。
食事の時、いつも宿をどうしているかという話題になり、いろいろ聞くと皆やはり当日の午前中、自分の足の調子で決めるとのことで・・。
中の一人が、今日も道々一緒になった人たちに宿を聞けばビジネスホテルが多かったと、この古い旅館の部屋を見回しながら言うと
「私は、こういう風に一緒になった人の話を聞くのが好きで、相部屋も気にならないのですよ」と東京の人が言う。確かにいろいろな話を聞くのは面白いのだけど苦手な話になると、逃げ場がなくなるので・・良し悪し。
翌朝、朝一5時半ごろ出発した一人を除いて、食事をともにし、その中で私が一番に宿を出る。
 高岡は水路が結構あり、再び水路沿いに歩き、途中から宇佐方面へ歩く。
塚地坂トンネル手前で遍路道へ入る。


この山道で同宿だった東京の人に追い越され・・・・、はたまたなんと昨夜の高齢の爺さんにも追い越される・・・。この頃から左足のかかとが痛み出す。坂道の石を踏みつけるたび痛い。。
 上り道は苦手だけども、ここまで追い越されるとがっくり。。
厭だなあ上りは・・・。
塚地峠から宇佐漁港を左に見ながら、急坂を一気に下ったら、「安政地震の碑」に出くわした。


なんの変哲もない山を降りた田んぼの横に、歴史的地震の碑があるので、ちょい不思議。
「こんな山首にねえ・・・」と思わずつぶやいてしまった。

宇佐大橋を渡って、横波スカイラインへ・・このあたりから左足のかかとの痛みがひどくなる。橋を渡りきったところに遍路道の立て札があるものの、迷うことなく海岸沿いの舗装道路を歩く。一般的に舗装してないほうの道路が歩きやすいというけど、私の場合かかとがごつごつ感を拾うので、少しでもかかとが痛み出すと得てない。
 朝青龍がその名を貰ったと言う青龍寺。前から一度は見てみたいと思ってたけど期待そぐわぬ、風情のある寺で・・。



36番青龍寺をでて、宇佐大橋を打もどり、横波の内湾沿いに須崎へ・・・・と思ったが、左足の痛みに負けあえなくリタイア。。
どうも、私の足は一泊二日用・・なのかもしれない・・。