平成最終日

1年以上のブランク後の投稿。

今年の2月22日 愛媛大学病院の血液内科 お払い箱になりました。2003年夏に地元の病院から転入院後 2004年6月自家造血幹細胞移植をして14年あまり通院してきましたが、3代目の担当医が転勤することになり「もう15年も診たから・・いいでしょう?」と言われ、地元の病院に帰ることになりました。平成の幕とともに一区切りということでしょうか・・・。まあ 65歳もすぎ 年金ももらう年になったので、現役バリバリに体を維持する必要もなくなったということもあるかもわかりませんが。

といっても 現在のところ 眼科と脳外科は 愛大に通院してますから 何とも言えないところではあります。結局 平成の半分は愛大へ通院していたことになりますから 永いといえば永かったのかなあ・・と。

去年の9月、2003年私が入院にして以来 同じ病棟で闘病し、2004年のほぼ同時期に移植した Gさん が亡くなられて気落ちしました。移植から14年・・お互い退院して最初 7.8年のころは、私の2代目の担当医とGさんの担当医が同じだったので、よく病院で会って 近況を話し合いながらお互いの無事を確認しながら励みにしていたのですが、3代目の担当医がお互い違うようになって、彼は携帯を持たない主義だったので あまり会う機会もなくなり、年賀状のやり取りだけになっていましたが、元気に過ごしているのだろうと思ってました。何しろ 移植前の大量抗がん剤投与の時も、それに至る前の化学治療の時も ケロッとしてて、患者仲間では 不死身じゃないか?と思われるぐらいの強さでしたので、奥さんから知らせを受けた時は 耳を疑うほどの驚きでした。お葬式には間に合わなかったのですが、お線香をあげに あの豪雨災害明けの 大洲の少し山渕にある家に行きました。祭壇には 移植し退院した後 お互い病院で経過観察で再開した時 私が撮影してあげたGさんのちょっとはにかんだ顔の写真が遺影として飾られてました。奥さんが言うには 「いつも持っている鞄の中にいれてて・・あまり写真撮られるのが好きじゃない人だったから、なかなか正面から写しているのがなくて この写真 本人も気に入ってたみたいで・・」と。Gさんは白血病でしたが、その再発は結局なかったのですが、3年ほど前 舌癌を発症 ここ2年は 本当にしんどい思いをしたと 奥さんから聞かされて・・年賀状の「元気にしている」と書かれていたのを思い出して胸の痛くなる思いがしました。私には あの当時の戦友が亡くなってしまったという思いが強く寂寥感が半端ではありませんでした。

 そして今年の4月3日 うちの店を最もひいきしてくれてた Tさんが亡くなりました。本当にショックでした。76歳でした。4月4日 昼前に少し見覚えのある女のお客さんが入ってきて「1枚写真にプリントしてください」というのです。

 実は私は しがない写真屋でして・・・。もう絶命寸前の店ですが・・・。で、スマホの画像を見るとTさんと2人写しの写真でしたので、焼いているとプリンターのある所まで入ってきて、少し涙ぐみながら「お父さん・・昨日亡くなったんです・・・」と言ったので、「えっ・・」とびっくりして「な、なんで?・・・事故?」と聞いたら「心筋梗塞・・・」。突然だったそうで・・奥さんが一緒に出掛けようと部屋に呼びに行ったら ベッドに倒れてたそうで・・緊急搬送したけど・・。

うちが店を開いて今年で39年目。開店当初から現在まで欠かすことなく2.3か月一度は必ず来てくれたお客さんは、Tさん ひとりです。本当に御贔屓にしていただきました。娘さんたちもお嫁に行くまでずっと贔屓にしてくれました。この2月にも パスポートが切れるからと 更新の写真を撮影したばかりでしたので、私のショックは大きかったです。ソフトボールも現役で出場していましたし健康に不安があるなどとても傍からは見えませんでした。人の命はわからないものですね、あんなに元気だった人が、あっという間に逝ってしまう・・。かとおもえば、15年前に「もう無理かもしれない」と地元の担当医にかみさんが言われた『悪性リンパ腫』の 私がいまだにこうして生きている、生かされている・・・わからんもんです。人の命は。

平成最後の日に、久しぶりに 一文 したためてみました。